晴れ。なぜか梅雨入りになると晴れる?! 今日はカラッとした暑さ。
同じ情報と経験を得た人たちがなぜ人によって違う意見を持つことになる。
現代は厳しく非難する時代でもあることに違いない。これまで社会に対して
発信する手段のなかった人たちが、ネットができたことで世界中に自分の
考えを述べられることになった。ある意味で革命的なことだと思う。
全く無名名人でも、もしネットに面白い動画などアップすれば、何百万人の
人が視聴することの可能性がある。
でも、それには良い面があれば、必ず悪い面もある。
「誰でも自由に発信できる」ということは、それに伴う厳しい反応もあり得る。
そのことを考えなければならないし、自分の発言に責任を持つことも大事だと
思う。ネット社会は発展すると逆に社会全体が狭くなりつつある。例えば、
かなり前に自分が発信したことがブーメランのように自分に戻ってきて、
自分を突き刺ささる可能性もある。そして、ネット情報が形を変えて、追って
くる時もあるので、逃げられない可能性も考えられる。
人によって考えが違うのが当たり前だと思われている。しかし、考えるとそうではない場合があるはずだ。もし、あるテレビ局が正しいと判断した情報を流せば
日本人全員が同じ知識を持つことによってほとんど同じ意見を持つことになる。
でも、それはあくまでも推測で、「事実」が同じであっても、期待される
「結果」も同じだとは限らない。
同じ事実なのに、なぜ意見の違う人が多い? それは、個人個人が自分の意見を
勝手に作る。人は即断即決しがちなので、自分の都合の良いことを正しいと
思ってしまう。だから、同じ情報を得ても、自分の経験に基づいた意見が大幅に
違ってくる。
情報はすぐ発信するのではなく、いったん立ち止まることが大事だと思う。
つまり、知識をもう一度、確認することと、自分と違う考えの人の意見を
得ることが必要だと思う。
日本人は「感覚的」な議論になりがちで、このよう発信がテレビなどが多い
気がする。待ったなしなので、勘違いが起こる。知識を得るためにネットが
とても便利だし、違った角度からの事実もわかるので、最適だと思う。
「議論」をするには、相手とする機会が必要! 相手といつも酒と世間話だけを
していると、発信しようとすることをいまさら議論できない。でも普段から
色んな問題を話していると、楽しく議論することができるし、議論をする機会も
普段から作っておく必要がある。
特に注意が必要なのは、「自分と違う意見の人を相手にする」ことで、
これは日本人が苦手だと思う。大陸の国は外国人が多く、戸籍もなく、
いつも見慣れぬ人と生活をしているので、言葉も「私」というように主語から
始めなければならないので、議論がしやすい。日本はほぼ単一民族で、
主語がなくても雰囲気で理解できる社会である。だから、いつも「同じ育ち、
同じ考えの人となる」という傾向があり、これが一生を通じるとかなり大きな
損している気がする。
日本で議論しているうちに喧嘩になる理由は「感覚的」だからだと思う。
外国人の場合は感情より論理が先になり、冷静な議論で終わる。夫婦の間も
そうで、日本のほうが以心伝心で同じでなければ気が済まないので喧嘩になる。
「民主主義」というのは元々「考えの違う人が集まり、相手の意見を間違って
いると考えない」というのが基本だから、日本が民主主義でいくのなら、
徐々に相手の意見をよく聞き、尊重するという土台を作らなければならない
とうまくいかない気がする。