寒の戻り。
最近は令和のフィーバーと同時に平成の最後の〇〇ランキングが目立つ。
おそらく5月1日から今度は〇〇初めての令和が流行する。
前にも書いたが、私にとって平成は呼吸器と共に生きる時代だった。
平成元年を病院で迎えたが、直ぐに在宅するために準備を始めた。
ポーランドで呼吸不全になり、家族の希望で気管切開し、呼吸器を装着した。
しかし、ポタブル呼吸器ではなかった。それじゃ、里帰りしていた私は主人
(日本人)と日本に帰れないと思っていた。
でも、運よくイギリスで1986年からポタブル呼吸器が出回り始めた。
しかし、当時、保険が効かず、個人輸入しかなかった。200万円を集めるのに
3ヶ月かかった。その間は集中治療室で待つしかなかった。
ポーランドに呼吸器が届いてから、今度出国準備が始まった。外部バッテリーは
自動車用のものしかなく、飛行機に乗せてくれる航空会社を探しても見つからずに
途方にくれた。でも、結局ポーランド政府は私に手を差し伸べてくれた。政府の
チャター機で日本に戻った。12時間の長旅だった。
成田から救急車で日本赤十字病院に運ばれ、一泊して次の日に成田―福岡の
日本航空の便に乗ったが、内部バッテリー(1時間半)に頼るだけてという条件
だった。どうにか耐えてきた。すぐにまた救急車で筋ジストロフィー病棟があった
病院に運ばれた。そこでほぼ10ヶ月過ごして、主治医の反対を押し切って
退院して、平成元年7月に在宅生活をスタートさせたと同時にずっと病院で
付き添ってくれた母がポーランドに帰国した。
まだその時は今ほど体調が悪くなく、何時間か呼吸器なしで過ごせたが、外した
ままだと声が出なくて、不便だった。ちゃんとしたヘルパー制度もなく、吸引できる
人材もなかった。当時、24時間の住み込み家政婦を雇うことで、在宅生活を
続けられた。
しかし、その体制の経済的な負担が大きく、長くは続けられなかった。
ボランティアを募集しても、呼吸器と吸引があるから、断られた。
でも、また偶然に救いの人が現れた。
応援クリックいただけると
嬉しいです。